忙しすぎワロタと最近読んだ記事

ワロえんが ま~~~じで忙しいんだけどどうしよ どうしたらいい?

なんか前の日記で「生きてます」って言ってたんだけど今本当に死んでてどうしようかな…ってなってます。急に忙しくなるじゃん、仕事…。
ありとあらゆる連絡も滞ってて本当に申し訳ないです。満足にPC触れない生活が4日ほど続いてる。どうなってんだ? 流石に金曜日はちょっと頑張るつもりだけど。

百歩譲って忙しいのはいいんですけど、忙しいと本当に心に余裕が無くなって、ありとあらゆる刺激ですーぐダメージ受けるんだよね。
今もマジでそれで、一日中ずっとネガティブな気持ちで過ごしてしまっています。やだ~…いきるのつらいよ~~…。
家のこととか今の世界のこととか、あとはまあ自分のやってることに対して「これでいいのか?」「いいわけないよなあ…」みたいなのをずっと繰り返している。
人に対してのヘイト、平常時はあんまり感じないんだけど、今は流石にちょっと…おかしいでしょ…みたいなことがあってぐるぐるしてる。やだな~。
こういうのがあるので今はほとんどTwitter見てない感じです。心が弱い時に見ていいものじゃないなと思ってる、Twitterのこと。
これでもさっきちょっと呟こうかな…と思ったんだけど、なんか虚しいだけな気がしてしまってやめちゃった。Twitterってこんなにむずかしいものだっけ?

忙しいせいでやりたいことも何一つできてないしインプットしたいものも全然できてない。スマホで摂取できるあれこれは結構読んだり見たりしているんだけど…。
その中で最近面白かったのは、「作品の感想を自分で考える時代は終わった→そして起きること」というはてなブログの記事です。「~という」とは言ったけど、タイトルは一部引用であってこれで全部ではないです。URLも貼らない…。該当記事の前半は最近流行ってる特定の作品の話なのでそこは紹介したくないなと思った。

「作品に感動したかどうかを決めるのは自分ではなくなった」
「作品に触れて、泣く、キャラクターを好きになる、続きが気になる、技をカッコイイと思う、などの感情を、作品を楽しんだ本人ではなく、SNSで繋がっているもしくはSNSで目に入る他人が決めている」
「自分の感想の言語化をしているのは自分ではなく、他人」

これめっちゃくちゃ「あ~…」ってなった。「わかる」じゃなくて「あ~…」と思った…。
コンテンツの勢いを司るのはSNSであると言っても過言ではない昨今、コンテンツの入り口はTwitterを筆頭とするSNSになっている、という感触があります。漫画作品の一話をまるまるTwitterに載せる、みたいな戦略があるときから爆発的に増えたのもある。
で、すごい大きく膨らんだ作品になると、作品に触れる前から「これはこういう作品なんだ」というのがSNSの他人の感想越しにわかってしまう。いやそのことについての是非の話がしたいんじゃないんだけど、そこで「周りの人はこう感じている」という情報を仕入れたまま作品を履修すると、他人の感想というバイアスがかかった状態の自分の感想が出来上がってしまう…これはある、と思うんですよね。
そして、周りの感想を見ていない状態で作品を履修して、自分の内なる感情を自分で言語化しないまま他人の感想を漁ることもできてしまう。そこで他人のことばを受けて、やっと自分の感想が言語化されてくる…これめちゃくちゃ経験あるから震えちゃった。あるわ。あるよな。あるんだよ。今の世界では自分の感想は自分だけじゃ決められなくて、他人の言うことに影響を受ける。そして自分の感想を作り出せる人がどんどん希少になっていく。感想の言語化という能力は、意識しないと発揮されることがなくなっていく。

「自分がどう思ったのかを考える前に、SNSやネットにはわかりやすく言語化された感想が文章や映像になって落ちている」
………………めっちゃわかるんだよなあ。何なら感想じゃなくても、他人が言語化してくれることによって初めて自分の思っていることに納得できたり(今)するもんな。少なくとも私は私の言語化の半分以上をネットに頼っている自覚がある。

私が「自分がインプットしたものを咀嚼し、それを自分の言葉にしてアウトプットする」ことができる人のことを「信頼できるオタク」と呼んでいるのは、もしかしたら「最早感想は個々の人間誰しもが持てる平等な思考ではない」と思ってるからなのかもな…。
そして私が、触れた作品に対して思ったこと感じたことをできる限り書き留めておきたい(できてない)と思っているのは、その能力を手放したくない、あるいは身に付けたいと思っているからなのかも。
うわ~ん、めちゃくちゃ納得してしまった。この記事は信頼するオタクがいいねしててたまたま見ただけなんですけど、すごい脳汁の出る話題だったな…。

あと定期的に言うんですけど、「自分が好きなものを好きだと言うのは難しい」もあるよね。
まずそもそも「好き」を簡単に表明できない人もいるし、出来たとしてもそれを自分の中で納得できる言葉を使って他人に説明できる人は少ないイメージ。後者は単純に好きなものへのハードルが高いんだろうけど。
この話をするときにちょっと言っておきたいことがあって、それが「ネットスラングを自分の言葉としていいか?」ということなんですけど。
最近そういうのを気にするようになってしまい、「性癖」とか「クソデカ感情」とかその辺の言葉を使うのに微妙な抵抗感を感じています。まあ使うんだけど。これらに代われる言葉が思い付かないので…。性癖の方はたまに趣味って言ってる。ニュアンスそんな変わりませんけどね。
実際問題「性癖」ということばの混ざったツイートをするとき、これ、「好き」で事足りんか?みたいなのは時々思うんだよな。性癖って言葉を使う意味って何だ?「好き」と「性癖」、好感度の程度の差があるのか?自分には差がなくても受け取り手によっては差がある言葉なのでは?程度の差はなくて、「好き」に具体性を持たせたのが「性癖」?そうだとしたらそんな「説明的なことば」を反射的に使っていいのか?  …みたいな。
何なら「好きな理由は性癖だからです!」ということばにも違和感感じないもんな。ますますわからなくなってくる…。まあこれは魅力の伝達を削ぎ落としたことばだと思うけど。Twitterならこれで十分だよなー。Twitterはそもそも「好きだと思ったら好きだというツール」みたいなところあるし。

…ということを考えていると、好きな理由をネットスラングなしで噛み砕いて他人に説明できる人はすごいんだよな…と思います。私もそうなりたい。なんかそれができたら私の中で納得もできる気がしない?私は納得したがりがちの人間…。
ここまで言っといてあれなんだけど、ネットスラング自体に抵抗があるとかそういうわけではないです。ネットスラング、めちゃくちゃ便利だから私も使うし。「一言で多くの人にそのニュアンスが伝わる単語」って考え方をするならネットスラングは進化した単語だと思うしね…。

気になった人は元記事探してみてね。とは言え特定の作品タイトルを挙げて話してる記事なのでそこは大丈夫な人だけ読んでほしいんだけど。
有意義な思考時間だったと思う~。

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