劇場版『映画大好きポンポさん』見た

来場者特典のために2回スクリーンで見ました。ここ数年で一番刺さった映画になりました。もう一回くらい行きたいな…。そして円盤出たらぜひ買いたい。

何がどう刺さったかの話をしたいなと思ってこうしてキーボードを叩いているんですが、どう足掻いても『konagonattsuの創作観』の話になります。
相変わらず癖の強い持論が展開されますが、自分以外の他の方に適用していい話ではないので「こういう奴もおるんやなあ」と外野目線で読んでいただけると助かります。

あ、当たり前ですが劇場版『映画大好きポンポさん』のネタバレを含みます。
原作漫画は無料で読めたんだっけな?と記憶してるけど、劇場版は原作漫画と違う展開・シーンが含まれていて、本記事はどちらかというとそこに言及してることが多いです。

 

 

「映画を撮るか、死ぬか、どっちかしかないんだ」

主人公、ジーン・フィニくんが原作漫画・劇場版どちらでも発する台詞です。

何を隠そう、この台詞がめちゃくちゃ好きです。
私は普段キャラクターに対する感情移入がわからないがちな読み手やってる自覚があるんですけど(そうじゃなきゃ朽葉勝利なんて作って遊んでない、わかんないものをわかんないなりに面白がってる方が楽しいというだけの話)、ジーンくんのこの台詞は感情移入(?)しちゃったな…。何で(?)がついているのかと言うとの話を以下にするんですが。

現実世界、社会人やりながら趣味を趣味として楽しむ人生を送ることを選んでしまった身としては、「そうしたくてもできない生き方」なわけです。「〇〇をするか、死ぬか」は。
大前提としてジーンくんは本当に映画しかない生き方をしてきています。友達を作らず、家族とも大して交流せず、ほぼすべての時間を映画に費やして生きている映画バカであり、彼から映画を奪ったらマジで死ぬんだろうなとしか思えない。
きっと、世間はそれを「悲しいことだ」というでしょう。何なら私もそう思う。私には趣味以外に、少ないながらも友人がいるし、仲がいい方の家族がいるし、そんなに苦痛でない仕事もあるから。「好きなもの・こと以外の何かを持っている」ということは、社会における健全性を示す一つの指標になる…と思う。
何だかんだこの価値観自体は間違ってないと思うんですよね。「一つのものに依存することの危険さ」の話、ちょくちょくTwitterでもRTで回ってくるイメージあるし。

そういうのがあるから、ジーンくんのかの台詞は現実世界で聞いたら危なっかしい台詞でしかなくて、「どうしてそんな風になっちゃったんだ」と思えてしまう。
それでもどうしてこんなに魅力を感じるのかと言えば、「そんな風に生きていけたらどんなに素晴らしいか」という憧れがあるからだと思うんだよな。「自分は既にそういう生き方をする選択肢を切ってここにいる」という事実が余計にその憧れを加速させている気がする。私は結構自分のこと蔑ろにしてでもやりたいことをやりたいタイプだから…(語弊)。

だから、感情移入かと言うとちょっと微妙なんだよな。私の口からあれは言えないから。
この台詞を発するジーンくん、すごい神妙な面持ちしてて覚悟決めてる顔してるけど、なんかそういう難しい部分やプレッシャーもひっくるめて私は「充実してていいなあ」と思ってしまう。
すごい、自分はあくまで外野のままでこんなに心を打たれると思ってなかった。すごい台詞だ…。

 

友情を切れ。家族を切れ。

クライマックス、ジーンくんはこう言い(?)ながら自らが監督した映画を編集していきます。
72時間分たっぷり撮った映像を一つの作品にするため、切って繋げての作業を行うわけです。こうやって書くと「それクライマックスになるか?」って感じの地味作業だけど、この72時間の中には「演者の一人にとっては思い出深いシーン」だったり、「脚本・監督以外のチームのメンバーが発案して撮ってみて、みんなでいいシーンが撮れた!と笑い合ったシーン」などが含まれています。
ジーン監督はそういう裏側のエピソードを抱えたまま、映像を切っていかなければならない。そんな裏エピソードは一つも知らない観客のために、です。
こう書くとその難しさ・葛藤がめちゃくちゃよくわかる…気がする。私はすごくわかる。自分で描きたくて描いた漫画のコマがストーリーの中で不必要だったとしても、私はそこを消して無かったことにはできないと思うんだよな…。もちろん時と場合によるけど…。

それでもジーン監督は切るんだよ。友情や家族、そういうあったかいものを切った先にできるものが欲しくて切っていくんだよ。

ここ、言葉にするとすごく痛々しくて切ない感じになっちゃうけど、この映画のすごいところはこんなシーンすら清々しくアツいものとして描いているところだと思う。
それはつまり、「友情や家族を切って得られるものを得る」ということの肯定だと思う。私はこの肯定がめちゃくちゃ嬉しかったんだよな…。

別に私は友人・家族を切ってるつもりは無いし、これからも切るつもりは無いし、切らないといいものは作れないと思ってるわけではないんだけど。
それでもモノづくりをしない人よりはその機会を切ってきている自覚がある。そうすることによって得られたはずのものを得られなかった、ということもあったんだろうと思っている。
そのことに対して、何だろうな、少しばかり「本当にこれでよかったんだろうか」と思う気持ちがあるんだよな。人との関わり合いこそ至高と思ってるわけじゃないけど、それによってもたらされる利の有用性がすごいものだっていうことがわかってるから…。

でも劇場版ポンポさんは「モノづくりのために他を切り捨てること」を肯定してくれたと思います。何ならジーンくんは自分の体も捨ててたからな。最近ちょくちょく漫画家さんの訃報やら何やらが流れてくることを考えるとそれは絶対よくないことではあるんだけど、でもめちゃくちゃわかるんだよな…。

あくまで私の受け取り方だからアレなんだけど、マジでこのシーンは最高すぎて毎日見たいです。いやそれはそれで考え方が凝り固まって全部捨てちゃいそうで危ないか…?

あ、このシーンでは私がすごく推してるVsingerの花譜ちゃんの挿入歌が流れるので目と耳の幸福度が非常に高いです。

 

「幸福は創造の敵」

かなり尖ったキャッチコピーだと思うし、モノづくりの真理かと聞かれるとそんなことないと思うんだけど、でもこの考え方が否定されるのは恐いな、と思う。だからこの作品で肯定されてすごくありがたいな…と思ったんだよな。

1人で暗い部屋に閉じこもって何かを創造するということ、恐らくだけど大半の人間がネガティブな印象を受けることだと思う。それはしょうがないと思うし、間違ってないと思う。

でもなんか、それをしてまでモノづくりをするということには、その分の熱量がその人の中で起こってる、というのを…何だろう、理解されたいとまでは言わないんだけど、せめて否定されないでほしくて…ごにょごにょしてしまいますね。
定期的に自分のこと修行僧かよって自虐するけど、「無理しなくていいんだよ」って言われると逆にへこむタイプのめんどくさい創作クラスタなのはこういう考え方のせいだよな…。なんか、私の熱量を「しんどいもの」と思われるのシンプルに悲しくなっちゃう。
かと言って善意だからね、「無理しなくていい」は!!! だから落としどころとしては「すまないがほっといてもらっていいか…」になっちゃうのよな。申し訳ないと思っています。でもそもそも無理すると最高効率キープできなくなるのわかってるからちゃんとケアした上で色々やってるつもりなんですよ…だから心配ご無用なんです…。

一応言っとくけど「ポンポさんよかった!私もこうして生きていきたい!」って趣旨の話じゃないですからね!!!!無理だから!!!!
気持ちが追いつかないっていうよりかは環境的に無理っていうすごい現実的な話なんだけど…環境さえあればやってたんかい(そうですね…)。

 

そんなわけで、劇場版ポンポさんのここがこう刺さってすごかったという話を長々としたんですが、上で書いたものを抜きにしてもヒューマンドラマとして面白いと思います。原作至高派の人が見たらどうなるかわかんないから保証できないし、私みたいな考え方してないモノづくりマンが見たらどう思うかわかんないから軽率におすすめできないんだけど(!?)、でも見てもらった方がポンポさんスタッフが助かると思うので見てください………………。

「モノづくりを本気でやる」ということにセーブをかけてる人間が見た劇場版ポンポさんの話、以上です。来世はこうなれるといいね。

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