自我の連続性

という言葉をTwitterランドで見かけてからずっと考えてる。勇気の話ね。
白星勇気、後天性狂人なんですけど、狂う前と狂った後の勇気の人格はちゃんと連続しているのか?ということについてはあまり考えてなかったな…と思った。先に言っておくと「連続している」という結論になったんだけど、何で直感的にそう言えなかったかというと彼の発狂はそのキッカケが大分エグくて、色々飛んだり壊れたりしてるから「正しく連続している」とまで言えるかは微妙かな…となったからです。

こんな話しようとしておいてなんだけど、私、狂う前の白星勇気のことほぼ考えてないんだよな…いや考えてないこともないけど一切出してないんだよな…。
「もしかしたらこうだったかも?」くらいのことしか発言した記憶はない、かな? こういう気持ちがあったからこうした→こういうことをしたらこうなったらから狂ったくらいは決まってるから小出しにはしてるかもしれん。今小出しにします。

勇気の発狂イベントの発生環境は以下です。

・研究に没頭し家庭を省みない父親を持つ
・↑の影響で家庭崩壊寸前まで行く
・この時点では普通の道徳教育がなされていた勇気は父親を家族のもとに取り戻したい一心でまずは父親の研究のことを知ろうとする→協力するようになる
・しかしその研究は実際の人間の子供を使うトンデモ実験であった
・実験に使われた子供たちは揃って身寄りがなく、勇気より一回り二回りと年下の子供が多かったため、普通の道徳以下略勇気は子供たちの実験の肩代わりをするようになる
・この時点で大分SAN値減ってたと思う
・耐久実験という名目で他の子供と一緒に限界環境化に置かれる実験に放り込まれる 高温部屋とか毒ガス部屋とか?
・ある程度成長した勇気と小さな子供とでは耐えられる限界値が当然違う バタバタ周りの子供が死ぬ中自分だけが残る
・発狂

箇条書きにすると結構長かった、というかしっかり設定してたな…。

そもそも勇気の発狂ってどういう扱いなの?っていう話をしようと思うんだけど、彼の発狂は言い換えるなら「価値観の再構築」だよなと思っている。いやそうなんだよ価値観の再構築だからこそ人格の連続性を疑わなきゃいけなくなったと言っても過言ではない…。
価値観というものを人格の中のどのポジションにおくかによって話は変わってくると思うんだけど、経験によって人は変わると考える宗教の私からすると、経験が直で影響する価値観は結構人格に近い意味を持ってる…と思ってる。そうなると人格の再構成なのでは…?って気がしてきちゃう、という意味です。流石に人格が再構成されてたら「自我が連続している」とは言えなくない?
自分の愛する家族が自分の学んだ道徳を破っているという事実、自分が助けたかった子供たちを惨殺された絶望、それと自分も実験動物として扱われるシンプルな恐怖によって、普通の道徳教育でできた勇気の性質はものの見事に逆転してしまうわけです。
家族は殺したいほど憎いし、助けたいと思えば思うほど助けられなくて苦しいから誰も助けたくないし、同じ人間を実験動物として扱ってくるような短絡的な生き物に絶望するようになってしまった…価値観の再構成だ…。
うーん、自分で盛った設定だけどなんていうか…重いな…。勇気の場合は勝利との対比構造が常に付きまとっているので、勝利の経験値と比べるとマジで重いんだよな…(勝利の経験値が勝利視点で全く重くないせいもある)。
あ、ちなみに勇気は自分の経験のことは酷いもんだと自認しています。キャラによってはここでめんどくさヒロイン化したりするんだろうけど勇気は普通にヴィランになったな…。ヴィランはヴィランでも特に高潔な目的も無く譲れないプライドがあるわけでもないので正直こいつ本当に格が低いんですよねえ…?まあ好きで設定したんだけど。好かれるヴィランのことはもちろん好きだけどそうでないヴィランも好きなんじゃ、「色んな奴がいる」とうれしいオタクは。

ちなみになんだけど「発狂」っていうイベントに世間はどんなイメージを持ってるんですかねえ。
CoCが流行った今はやっぱりあれなんだろうか。ショックな事物を受けて心が一時的、あるいは長期的に現実逃避をしておかしな行動をとり始める…みたいなのがシンプルに「発狂」と呼ばれがちなんだろうか?
私もCoCかじってるので普通に「発狂」って聞いたら上で書いたようなことかな?って思っちゃう部分はあります。でも自分でそれを描くってなったら「CoCのレールに乗せる必要無いよな…」と思ってちょっとニュアンス変えてるかも。少なくとも勇気の発狂はCoCの発狂ではない。
勇気の発狂による「変化」は成長や学習というものに到底収まるものではないし、羽化や進化と呼べるほどポジティブではない。脳味噌シェイクされるくらいの激しい絶望と怒りで完全に変わってしまった、これをずばり言い表せる日本語が思い付かなかったから「発狂」と呼んでる…みたいな感じ?だろうか。
いやCoC的に言ったら勇気はSAN0なんですよ。SAN0だからこれが本当のCoCだったら廃人になってたんだろうけど(実際そうなってもおかしくないイベントが彼には起きてると思うんですけどどうですかね?)、ここはCoCの世界じゃないので…。だから廃人にならずに価値観の再構成だけで済んで、ある程度理性的な会話も可能です。まあ以前の勇気を知る人からしたらまったくの別人になってるくらいの変わりようを感じる(元の人からは考えられないことをする=おかしな行動をとり始めるに言い換えられるような気もする)んだろうけど。

それにしてもあれだよな…発狂イベントまでは家族想いで他人想いだった白星勇気な…今ではすっかりそれ誰だよ?だけど。
経験こそが人格を作る、という宗教観のもとに言うんですけど、家族に裏切られて他人を助けたくても助けられなかった経験がモロに悪影響突き抜けて人格変えてしまった感ある。勇気という人格を変えたのはやっぱり経験なんだよなあ…。

ちなみに、発狂イベントに関する記憶はすべてちゃんと残っています。ただその時持っていた感情についてはあまりにも今の自我・価値観と違いすぎて他人の記憶を持ってるみたいな違和感はあるかもしれない?
でもやっぱりずっと怨恨を燃やし続けているからその記憶は自分のものだという意識はあるんだろうな…。感情の記憶と出来事の記憶はまた別スロットってことだよな。面白いなあ…(主旨が変わってきたのを感じる)。

で、ここまでちょろちょろ考察しましたが、結局勇気は発狂前と発狂後で自我が連続していると捉えられるんだろうか?
記憶→連続している
感情→連続している
経験→連続している
だから、やっぱり連続していると言っていいのかな?と思いました。
強いて言うなら「性質→逆転している」もあるんだけど、「逆転」って括りとしては連続に連ねられるかなあ…?どうだろうか。「逆転」、もともと形の決まっているものを基準とした対称的な変化だと思うから個人的には連続のグループに入れていいんじゃないかなあと思っています。

勇気の話しただけで結構打ってて草なんですけど…もうちょっと話したいので話します。

自我の連続性の話でときあおちゃんの話もできるじゃん! むしろしないわけにいかなくない!?
彼女ら(複数形)は明らかに連続してないっていう典型だよね。分断されてるというか分裂しているだけども…いや何言ってんだ。葵ちゃんとかいう人格メーカー…。

生まれた時から自己否定が染みついた人間だった喜多方葵、自認ですら既にそうなので他認されてしまうと本当にこの世に居場所が無くなってしまうんだなあ。だからこそ「自分とは別の存在価値」を生み出して存在をし続けようっていう…。「自分とは別の存在価値」への切り替えは「人格の分断」だよなあ。いや分断にならない場合もあるだろうけど、少なくとも葵ちゃんがやるとしたら分断なんだよ…。
そうやって生まれた人格は元人格とは別物なんだけど、バックボーンには常に元人格があるっていうのもベネですよね。記憶は共有してるんだっけ…。朱鷺ちゃんの記憶は大分手入ってるからあれがデフォルトスタンダードだと思っちゃいけないだろうなと思ってるんだけど。
打ってて思ったんだけど人格プラナリアかよ!?!? いや大好きなんだけどそういうの…大好きですね…。他の誰もしていない方法で生存競争に勝ってる感じ、最高にクレバーだよ葵ちゃん。クレバーだけど「いやそうはならんやろ!?」とは思うよ葵ちゃん。

元人格へのダメージにより生まれる新人格、原材料になり得るのは元人格の中にある引き出しのものしかないので、言ってしまえば元人格とまったくの別性質のものは作られないんですよね。
それがめちゃくちゃいいな…と私は思ってて、ここ好きポイントなんですけど。葵ちゃんとしては「自分とは別の存在価値」を生まなくてはいけないので、その目的達成のために自分とは別性質のものを作ろうとするんだけど、結局材料が自分の経験・記憶・感情その他自分の持ってるものしかないから上手く作れないの。かわいいな…かわいいねえ。ままならないねえ。
だから朱鷺ちゃん(結局は上手く作れていない人格=葵ちゃん視点での「結局私」)という人格が上手くいったことを素直に受け止められないの最高にめんどくさくて愛しい。葵ちゃんさあ…ニッコニッコ…。

ここまで打っててスワンプマン思い出した。スワンプマン知らない人はググってほしい。説明難しいので…。
葵ちゃんが作りたいのは自分の完全なクローンじゃなくて自分とはまったく違うものだからスワンプマンとは違うんだけど、自分と同価値(=無)の別のものを生んで「自分と同じ」としているのはスワンプマン的な思想を感じる。スワンプマン的な思想って何だよ? 私にもわかりません。
いやでも、本当にスワンプマンに毛が生えたみたいな思考実験させられてる気分になるな…。ときあおちゃんのこの辺の話についてはまた別途論文を書いて発表するということで(しない)。

この話したときにもうひとつ話したかったのは暗天の朽葉勝利の話だった。

暗天の朽葉勝利、黒天白星を継いだ瞬間が転換点なのは間違いないんだけど、このイベントって他の世界線には存在しないから扱いが難しいんだよな。朽葉勝利、基本的には生まれたときから朽葉勝利なんですよね…。
一応BLACK ROSE(魔王様と生贄の本)の魔王様とかも魔王になったという特殊イベントが発生してるんだけど、そのイベントがなくても朽葉勝利は朽葉勝利として完成してたはず。だから今のところ、暗天の勝利だけが唯一の特殊例なんですよね。
えーとつまり、暗天の朽葉勝利は特殊イベントをきっかけに朽葉勝利として完成した、つまりそれまでは朽葉勝利として不完全だったということなんですよね。不完全というか、朽葉勝利を朽葉勝利たらしめる概念スロットが不揃いだったというか…。

不完全なそいつと特殊イベント越えた朽葉勝利、自我は連続しているのか?という話だよな。
いやこれはマジでわからん…本当にわからん…。何故なら不完全なそいつについては掘り下げたくないから………。
これは暗天ネタバレなんですけど刀を継ぐ前の朽葉勝利のことは今後一切描写されません。多分要らないし(描きたくないとか需要を感じないという意味ではなく単純に物語としても蛇足だと思う)。
掘り下げたくないというかそいつを朽葉勝利として扱いたくないというのが正しいよね…自キャラ信仰が激しい創作クラスタだからさあ~!!! 朽葉勝利じゃないモノと朽葉勝利の人格を並べて「繋がってる?」ってすんのおかしくない!?!? そういうことです。そういうことなんだ、これは。

とは言え朽葉勝利という究極の理屈ゲー自我が生まれた経緯がちゃんと在る暗天はある意味正しい気はする。ちゃんと真面目にストーリーやろうとした努力を感じる。
暗天、もともとあった性質を活かしつつ全員に決まってた経験を上手いこと世界観に落とし込めたなあと自画自賛しているんだけど、それをするために無理してる部分もある(というか黒天の特殊イベントがまさにそれ)のでその辺の話とかしたいよな。まあ完結してからだけど…がんばるね…。

今更だけど連続していた方が説得力がある~とか、逆に連続してないと…とかそういう「観測者の受ける印象」についてはあんまり意識したくないな…創作なんだから(というより商業作品じゃないんだから、という方が正しい)観測者のことを意識するかしないかは自由にやりたい感じ。少なくともこくときゆうあおは好き勝手やりて~~~!と思ってるからね。
私にも説得力があった方が楽しい!と思う分野のことっていっぱいあるしね。今回はたまたま「うーんまあ無くていいか」と思ったってだけの話なんで。

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