ブログを放置しがち

前回のブログがシフトサイト作ったよ報告でおったまげました。2ヶ月経っちゃうよ!!
ということで、久々にブログ用の記事をしたためております。腰を落ち着けて長文を書く余裕が無かったんだなあ…。
例によって思想の話が駄々洩れです。自己責任で読んでください。

文章化が癖になっているという話
いきなり何やねん、ブログ放置してました~の人が言うことじゃないだろと言われたらぐうの音も出ないんですが、ブログやTwitterに流さないだけで思考整理のための文章は死ぬほど書いてるんですよね。
どこで書いているの、いつ書いているのと聞かれると…仕事中、仕事のパソコンで…www(真似しちゃダメ)
仕事の振りをしながらカタカタやってみたりとか、仕事の息抜きにカタカタやってみたりとかで自分の考えていることをメモ帳に書くことが癖になっています。これがないと仕事中狂いそうになるんだよ()
少ない日もあるけど多い日は普通に一万字以上打つこともあります。勤務時間八時間弱でだよ…私のような家大好き人間は一時間に一回は「帰りたい」を出力しないと暴走するので、そのメモにも「帰りたい」が頻出するんですけどね。
何でそのメモがそんなに捗るのかと言うと、仕事にそういう隙が生まれやすいということもそうなんですが「自分以外誰も見ないから推敲しなくていい」があるんですよね…。ちょっとこの話最後に回していい? 多分この記事の中で一番ドギツい思想の話だから…。

文章を打つタイミング
そんなわけで私は文章を打つときは仕事の合間が一番捗るんですけど、ブログにしたためる長文とかTwitterに流す長文とか(最近そんなに流してないかもしれん)は仕事中に打つわけにもいかないので別で時間取ってます。
とは言え自室のPC前にいるときは出来る限り作業進捗を生みたいのであんまり文字打つ時間作れないんですけど…なので基本は仕事の休憩中のスマホ触ってる時間、または寝る前や目が覚めてちゃんと起きるまでの時間でぽちぽちとやってます。移動時間は何故か捗らないので、というのも地下鉄乗ってる時間10分超くらいの短い時間しかないのでそんなにやらないかな?
文章の整理はevernoteを使ってるんですけど、スマホのevernote絶妙に使いにくいんですよね…だから打つ用にはあんまり使ってないです。スマホのevernoteはもっぱら閲覧用。
スマホで長文生むときに一番いいツール、Twitterなんだよね…1ツイート140文字しか打てんものを長文生むときに使うなという話なんですけどでも何だかんだ一番捗るんだよな…w
もちろん自分の思想の原液を人の見えるところで垂れ流すわけにはいかないので、フォロワー0のところでぽちゃぽちゃやってます。たまに裏垢で流すSSとかも思いついたシーンはそこにぽいぽい投げて繋げていったりして、最終的にPCでそのツイートを連結して補完して完成って流れで最近はやってる。
家のPCではあんまり文字打たないって言ったけど絵の作業より優先される場合は普通にやります。PC版のevernote、今見たら新しくなってたから現在進行形で使ってみてるけど今のところいい感じかな…? ちょっと前のPC版のevernote、実際の打鍵と文字の反映のラグがすごくてイライラすることが多かったからあんまり使ってなかったです。環境が悪かったのかなあ…? やっぱりデフォルトのメモ帳が最強のレスポンスしてた。

レスポンスに怯えている
最後です。「人に見せないとわかっているから推敲が必要無くて楽」の話ね。
Twitterは結構がちがちに自分ルール敷いてるし、ブログもある程度推敲してあげるようにしたい(かつてはそうでもなかったから反省してる、耐えられなくなったら今からでも消すかも)ので、ある一定のラインまで文章の質にはこだわりたいんですよね。この場合の質とは「誤字脱字がない」とか「文法的に正しい」とか「読みやすい」とかの話じゃなくて、「他の人が読んで不快になる表現がない」とか「未来の自分が読んで不快になる表現がない」ことを指します。
何も考えてない推敲無しの文章は他人の尊厳を蹴散らしたりするんかいと言われたらそれはそうじゃないと思いたい…んですけど、なんていうの? 私は私の言葉遣いをマジで信用してなくて、無意識に「他の人が好んでいるものを下げて自分が好きなものを上げる」とか、「相応しくない脳死スラングを用いる」とかやる気がするんですよね…。これらはかつての私がやっていたことです。人のいるところではもう絶対出したくないことです。いくらそう注意しようと思ったってかつての私がやっていたことなので今の私なら大丈夫!(脳死)とはならん、ということです。
こんな辺境ブログに誰が来るねんと思う私がいないこともないんですが、Wordpressくんはなんと閲覧者数を出してくれるのでこんなブログにも読者がいることがわかっているんですよね。(ありがとうございます)人が見る文章である、そして今後見てくれる人がいなくなるかもしれなくても「辿り着きさえすれば誰でも見られる場所」に文章を置いているという自覚は必要だと思うので、今後もこのブログの文章はガッツリ推敲済のものでお届けします。
とは言えこのスタイルは文章の読む読まないを選択できるような作りになってると思うので、不快にさせられたんだが!?とか言われてもちょっと困ります…。注意書きもしてるし、自己責任でお願いします。あんまり事故が起きないように努めてます、これでも。

いやそう、あんまりいじってないのがよくないのかもしれないんですけど今のWordpressくんは閲覧者数が見えるんだよな~!!いらねえんだよなあ~!!!(掌返し)
なんていうか、コメントもシェアボタンも消してるんだから見てる人の人数も当然わかる必要ない…シュレディンガーの読者でいい…。これは「見てる人の存在を認識したくない」という意味ではなくて、単純に私が数字アレルギーなだけです。要するに「1か100か」は不要で、「いるかいないか」はあってもいい。
そのうちちゃんといじってこの手の数字は見えなくなるようにしたいです。ていうかします…。見てくれてる人がいるということはもうわかったので…。

ていうかそもそもなんだけど、何でこのブログやってんの? って話しとこうかな? 私にも思考開示の欲があるからです。以上。
……不思議だよな~。何で人間にはポジ・ネガ問わず思考開示の欲があるんだろう。最近は「お気持ち」なんて揶揄されたりしていますけれど、この語りもお気持ち長文に片足突っ込んでるんだろうなあ。そうならないように「あ~そういう人いるいる」と想像つく派閥の人たちを否定したりしないようにしたりとかしているんですけど、難しいなあ。
思考開示…楽しいけどお気持ち長文との境界があいまいだなと思います。私がしたいのはお気持ち長文ではなく、思考開示です。

【10/19 追記、というか削除】
お気持ち表明する人のこと悪く言ってるように聞こえるな…と思ったのでその辺削除しました。
お気持ち表明する人のこと、理解はできるけど協調はできないから「触らないように傍観に徹する」くらいの距離感でいたいよね…。

私にも思考開示の欲があるのでこのブログをしていますが、その内容のせいで場所は選びたいしレスポンスも期待しないでおきたいと思ってます。レスポンス…怖い…自分濃度の高い思考開示の文章にレスポンスが来るの、肯定も否定も怖い。思想の肯定は病みつきになって声が大きくなったりしたらはしたないし、否定は単純に人格否定と受け取ってしまいそうだから。
あとレスポンスって「絶対来る」「来るかわからない」「絶対来ない」だったら真ん中クッソしんどくないですか!?!?!? この話がしたかった。
先に言っておくんだけど私が何か発信したことについて、少なくとも否定ではないレスポンスを返してくださる方々には感謝してもしきれません。否定のレスポンスが返ってきてたらわかんないけど、少なくともありがたい…と感じられるお言葉ばかりいただいている自覚があるので…本当にありがとうございます。心の支えです。私なんかは特に、人の発信していることに対して積極的なレスポンスができないタイプなので、そんなんでも構ってくださる人がいて…本当に恵まれていると思ってます。引っ込み思案のくせにかまってちゃんなんだから…w(かまってちゃんができるのはあまり否定を被ってこなかったからこそだと思うのですが)

で、レスポンスが「絶対来る」「来るかわからない」「絶対来ない」の具体的な話をするんですけど、

絶対来る:環境の用意ができない(何を発信しても誰の目にも留まらない可能性があり、リアクションが来るかどうかは操作できないため)
来るかわからない:環境の用意ができる(リアクションが来るか来ないかはわからない状態、基本的には特に公開制限をしてないTwitterやpixivがこれ)
絶対来ない:環境の用意ができる(リアクションが絶対来ない状態≒他の誰も見ていない状態、鍵をかけてフォロワー0人にしているアカウントなど)

↑基本的にはこういう環境の作りやすさしてるじゃないですか。「絶対来る」という箱を作るのは…まあできるかもしれないけど、他人の心を操作できない時点で100%保証されるということはないと思う。たとえ神絵師/神字書きだとしてもね。
「来るかわからない」は多分これで世の創作者の大多数は苦しんでると思うってくらい身近な環境だと思います。この中でどれだけの反応を獲得できるかが一種のステータスになっている人間もおり、まあその在り方は否定しようがないんですが個人的には自分がそれだと絶対摩耗するぞ…と思ってるのでそうはなりたくはないかなあ…。状況にもよると思うけど。
「絶対来ない」、これがね…これがね…楽なんですよ…人による、本当に人によると思うんですけど、少し引きこもってみたときわかったんだけど、私はめちゃくちゃ楽だった…。
「絶対来る」「絶対来ない」、このどちらかがわかっている状態が楽なんだろうな。「来るかわからない」は程度にもよるけど、常に期待を持ってそして常に裏切られるかもしれないストレスのもとに晒されている。そういう理屈なんだと思います。だから「何にも裏切られない」、「絶対レスポンスの来ない」空間がストレスフリーに感じるんだな、と。
この辺の考え方がさあ~~~~「推敲しない」の話にも繋がってくるんだよ~~~~、この話の言語化をしたときめちゃくちゃ納得しちゃったもんな…。意味のある自己分析だった。
だからこれからも「来るかわからない」空間に疲れたら、「絶対来ない」空間に安寧を求めてしまうのだと思います。そこでは誰も私の言うことを受け止めてくれないけれど、それは「受け止めてもらえないかもしれない」という不安と戦う必要が無いので。私はかまってちゃんだからこそ、レスポンスという「許し」が無いと満足に発信できないんだと思います。危ないかなあ…危ない気もするなあ…。
そんならもっと、許しを得られるアウトプットをしたらいいと思うんだけど。私はそんなに器用じゃないし私が私が!とはなれないんだなあ…あとそういう発言をすることは少なからず自分の中の不満を零すことだと思ってしまうので、それが恥ずかしい…。他の人がやってる分にはいいんですけどね…。
当たり前なんですけど私は人の反応を操作したいとはまtttttったく思ってないです。思ってない? というか「するべきではない/できるべきではない」と思っているので…。だからこの記事を読んだからと言って「この人に絶対レスポンスが来る箱をあげなきゃ」とか思わなくていいです!!!それをされたとしても私からは多分その考えは見えないままで、結局「来るかわからない」状態なので。本当に、気にしないでください…。

誰もいない空間にものを発信するのは楽で、そうしているとちゃんとしゃんとしてくるので、もし引きこもったとしても結局最後にはいつも通りになれています。今のうちはそれでいいかなと…。これが私のセルフコントロール、ということで…はい。

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